各教科の特性3(算数?)
算数?としているのは、自分自身の考えによるところが大きいからです。正直、算数に関しては不勉強なところが多く、少々自信がありません。
国語は表現力、読解力(受容力)ですが、算数は合理的な思考力を伸ばすことが大切だと考えています。合理的とは、ここでは「無駄がないこと」「無駄を省いたこと」として考えます。
例えば、算数では様々なことを数値に直して思考することが多いです。
白うさぎが3匹います。黒うさぎが2匹来ました。合わせて何匹になりますか。という文章は、式に直すと
3+2=◻︎となります。
うさぎの数を3、2、◻︎という数の要素のみにし、それらの関係性を+、=と簡略化します。これは一年生の1学期の算数の問いですが、こうして不必要な部分を取り除いて合理的に思考することを学びます。つまり、解決したい課題(合計数を求めること)に合わせて、必要な情報を抜き取る思考をするわけです。
また、計算の学習も中学年、高学年になると、計算の法則を応用したものの学習をします。その一つとして分配算というものがあります。
8×4+2×4=(8+2)×4 という計算式です。
これはよく面積計算のような図で説明されることが多いのですが、重要なのはそこではなく、「どうせ8も2も×4をするなら、後からまとめてやっても同じ」という思考をすることです。ここでも無駄を省くということをします。
私はよく皿の片付けで説明します。お皿とコップを片付けるとき、別々で運んでも、まとめて運んでも同じだよね、と。皿の片付けも分配算なわけであり、重要なのは合理的な思考です。
もちろん、数字の意味や計算上の法則など、考えるための知識を習得することは基礎的な力として必要です。しかし、算数で身につけさせるべきは合理的な思考力です。と考えています。
よく算数で目指すことを説明するために「は、か、せ」で説明することがあります。「は」・・・早く答えを出せること。
「か」・・・簡単、簡潔に答えを出せること。
「せ」・・・正確に答えを出せること。
この説明は先輩の受け売りですが、算数で目指すべきことがまとまっていると思います。そして、この目標を達成するために、無駄な情報も工程も省く合理的な思考力が大切だと考えています。
各教科の特性2(国語)
各教科の特性について整理したいと考えていますが、私が考えていることと学習指導要領をベースにして述べていく形になるので、場合によって解釈に誤りがあるかもしれません。その点ご容赦ください。
今回は国語について整理したいと思います。
国語科は全ての教科の基本となる教科です。これは言い切っていいと思います。というのは、いずれの教科にせよ、主に言葉や文字から情報を得て、言葉や文字で表現するからです。その意味で、国語の特性を考えることは学習の基礎について考えることとも言えます。
実際に現場で働いていても、子供たちの学力が伸びないことの原因は国語にあることは珍しくありません。
言語や文字で伝わる情報は2割くらいであるというのを以前でどこかで目にしたことがあります。
実際に自分の想いを形にしようとした時に、なかなか「これだ!」という形にはなりにくいものです。私は普段、学級だよりを書きますが、納得のいく文章ができるのは年に数回というところです。子供たちは、なおのこと想いを上手に表現できません。
また、表現されたことを受け取ることにも難しさがあります。子供たちは意外と文章の内容を正確に読み取ることができません。それには、いろいろな要因があります。文章の読み飛ばし、知識不足、思い込みによる曲解など。同様なことは大人でも起きていると思います。
表現する難しさ、受け取る難しさを経ると、2割ほどしか伝わらないということなのかもしれません。
つまり、言葉や文字を媒介とする表現と読解をできるかぎり、表現者の想いに近づける力を養うことが国語という教科の特性なのではないか、と考えています。
それ故、私は指導する際に、「想いの言語化は大事だよー」とか「あなたの事はあなたの言葉と文字からしか分からないよー」と声掛けをしています。また、その他の教科でも、必ず文字にして記録をつけるようにさせ「記録のない学習は遊び」と言い切っています。
繰り返しになりますが、過不足なく、丁寧に、相手を意識して、想いを書き、想いを読み取ることが国語では大切なのだと考えています。
各教科の特性1
職場に実習生が来る時期になりました。右も左もわからず、子供の言動に翻弄されながらも奮闘する姿を見ると、なんだか応援したくなります。困っている様子を見かけると、つい声をかけちゃいますし、一つの質問に対して、10以上の回答をしてしまいます。教員である以上頑張る人に対して、必要以上に応援してしまうのは特性なのかもしれません。
先日はその実習生との会話の中で、「授業で大切にしていること」についての話になりました。
正直なところ、全ての教科、全ての単元において共通して大切にしていることは、私自身はありません。今は、「アクティブラーニング」というのが流行していて、学習指導要領では、どの教科でも、その点を抑えようとしてきます。しかし、私はこの風潮に懐疑的で、実際、詰め込み型の授業を行うこともあります。ベースとなる知識と視点は「アクティブ」になる以前に必要だと思いますので。
話を戻しますが、全ての教科、単元で共通する大切なことはなのですが、各教科で大切な部分はあると思います。私は、それは教科の「特性」と考えています。
例えば、国語では「情報を受け取る力」と「情報を伝える力」の育成だと考えています。その点が大事なのだから、物語の内容はなんでも良いし、作文のテーマもなんでもいいと思っています。(子供の発達段階は考慮する必要があります。)
こんな感じで、教科の「特性」を捉えて授業を構築することが大事だと考えています。「特性」は本質と言い換えていも良いかもしれませんが、「特性」を無視してしまうと教材の内容に振り回されてしまって、育てるべき部分を見失ってしまいます。
「大きなかぶ」なら、かぶの大きさや登場人物の関係性ではなく、正しく言葉のまとまりを捉えて、発声することが大事なのです。
「特性」を意識しない授業はマニアックで応用の効かない、その場限りの知識の習得に終始してしまう傾向があるように思います。
前述の通り、知識に価値はありますが、その修得は学習の本質ではないと思います。私自身不勉強ですが、次回はこの各教科の「特性」についてまとめたいと思います。
叱り方3
ずいぶん間が空きましたが、叱るときに心がけていることの続きを書きたいと思います。
叱る場面において子供たちはそれぞれ言い分があります。大体の場合においてあります。「〇〇がズルをした」「悪口を言ってきた」「叩いてきた」。蓄積されている苛立ちや不安もあるかもしれません。
いずれにしても、そうした子供たちの言い分を一度は引き取ります。「それは嫌だね」「それはムカつくね」と。
そして「それはそれで良い」と付け加えます。
こうした子どもの抱える理由は、ある意味本能的なものだと私は考えています。理由は述べますが、理屈にはなっていないことが多いです。
ですがだからと言って否定はしません。なぜなら、その理由が本能的なものであるのなら、その子の持つ個性や性質と直結するからです。言い方を変えれば人間性です。その理由を否定することは、その子の人間性を否定することになると考えています。
だから、その理由は否定しません。ですが、結果として叱られる事案になっている以上は、全肯定もしません。
正直、大人にも怒りやすいツボの様なものがあると思います。私にもあるし、自覚しています。
だから大事なのは、その子の人間性が事案に直結しないように調整することだと思っています。それが「説教」をする教師の役割なのかなと。
実際の声掛けでは「怒るのはわかる。そりゃ腹がたつ。でも相手も〜されるのは嫌だし、それはしてはならないよ。」と言ってから「もう一度いうけど、怒ってはいいんだよ。でも怒った後にどうするかが問題なのだから、それは考えようか」と繋げていきます。
子どもの心理状態によっては何一つ耳に入らないので、そこはある程度発散させておく必要はありますが、概ねこんな感じで子供には言います。
ポイントなのは、子どもの本能的な部分、人格に直結する部分は否定しないことだと考えています。
叱り方2
教員として勤務し始めて、すでに、10年以上が経過していますが、1日として子供に注意をしない日はありません。「叱る」というほどキツイ言い方にならないにしてもです。それぐらい、学校現場は毎日何かしらの出来事がありますし、その頻度に応じて、現場の教員の疲労度は大きくなっていきます。
精神状態にも影響を受けますが、疲労度が大きいほど「叱る」という形をとることが多い気がしています。
しかし、そのような状態においても「叱る」ときには冷静な自分を頭の片隅に置いておくことが大事です。
冷静な自分がしなくてはならないのは、児童の課題を分析し、今まさに「叱っている」ことの落とし所を探ることです。
「こら!ダメだろう!」と声を荒げて、怒りを露わにしていても、頭の片隅の冷静な自分に、「状況分析は十分か」「この子の課題はどこにあるのか」「必要な手立ては何か」を考えさせます。
「叱る」とき、タイミングと同じくらい着地点は大事です。その場で「叱る」ことを終えないとダラダラとして説教になりがちです。
授業と同様に子供たちの集中力には限界があります。その意味で、ダラダラ説教には意味がありません。
また、引きずることは児童の「直そう」「修正しよう」という意欲を削ぎます。
個人的な見解ですが、短くスパンッと終わる説教が効果的だと思います。その意味でも叱る時には着地点を探ることが大切です。そして、それは頭の片隅の冷静な自分にしかできないことです。
その意味で、どんなに感情を露わにしても、冷静でいられるように努めなくてはいけないとかんがえています。
叱り方①
先日、新規採用された先生に「叱ることができない」という相談を受けました。その先生はこれまで他人に対して叱ったことがなく、また怒ったこともないということでした。その話を受けて伝えたことをまとめたいと思います。
感情をコントロールする
子供が叱られるタイミングというのは、学校のルールや道徳、一般的な常識に反した時です。当然その時、大人は違和感や不快感を感じます。感じる度合いは人ぞれぞれだと思いますが、少なからずあると思います。
その時、感じた違和感・不快感を伝えるときに自分の感情をどの程度子供に伝えるかは、その内容によってコントロールしないといけないと私は考えています。
自身又は他者を取り返しがつかないレベルで傷つけるものであり、事の重大さに当該児童が理解していない場合は、『怒り』という形で子供に伝えます。傷つくのが心であるにしろ、体にあるにしろです。子供の心のガードごと破壊してしまいます。(その後の修復作業もありますが、それは次回以降に書きます)
逆に取り返しがつくものであり、視点を一つ与えることで間違いに気づけるものであれば、「考え方」という形で子供に伝えます。感情は極端に抑えますが、「真剣である」という雰囲気づくりは欠かしません。(「怒っている」時は配慮しなくても真剣さは伝わります)
両極端ですが、ケースバイケースで感情はコントロールします。子供に感情を伝えることは悪いこととは思いませんし、冷静に対応する場合にも「不愉快です」とはっきり言います。叱ることとは別件になりますが、人の感情を知ることも子供たちには必要なことだと思います。
需要なのはコントロールすること。激しい『怒り』を露わにするときも、頭の片隅に嫌に冷静な自分を置いておくことが大切だと考えています。
以前は親であれば、とにかく感情的になることも「あり」だと思っていましたが、今は親であっても冷静な自分を置いておくべきかと考えています。なぜなら、冷静な自分にはきちんと役割があるからです。次回はその冷静な自分の役割についてまとめたいと思います。
学級だよりについて4
学校現場では、毎日何かしらの出来事があり、何もない日はほとんどありません。私は普段から、カメラを持ち歩き子供たちの活動の様子を写真に収めています。「頑張っているなあ」「いつもと違う様子だ」「成長したなあ」「これは記念になる」など、いろいろな思いを持ちつつカメラを向けます。低学年だと目線をこっちに向けてポーズしたりしますし、高学年だと気にせず自分のことを続けるか、明確に拒否します。拒否された場合はもちろん無理には写真を取りません。
いずれにせよ、家の人が見られない子供の様子をカメラに収めるようにしています。
しかし、そうした情報も学級便りなどの形にしないと伝えられません。のんびりしていると情報が古くなってしまいます。個人的な所感ですが、情報はナマモノで、消費期限があると考えています。
そのため、できるだけ素早く出すための工夫が必要になります。そのための工夫は以下の2点です。
① あらかじめ学級だよりの文面を考えておき、後で加筆修正加筆修正して発行する。
② 学級だよりの型を決めておく。
②については、大きく2つほどの型を私は用意しています。
1 文章(400字程度)+写真(6枚)
2 文章(200字程度)+表or図+写真
表や図では席位置、学習グループ、係活動グループ分け、時間割などの情報を載せています。
決まった型があると、文や写真などの位置の調整をしなくて済むのでかなりの時短になります。私の場合は一枚作るのにかかる時間は30ほどです。(勤務時間的に考えると結構負担ですが)
もう少し記事内容減らしたり、写真のレイアウトによってはもっと時短できるかもしれません。図形も使い方によっては見やすくなりますし、記事をコンパクトにしてくれます。これらは、あくまでも一例です。

